嵯峨
宇多野から高雄へ行く街道に梅ケ畑という場所がありますが、ここから丘を越え大覚寺へ抜けました。ちょとハードな嵯峨野の散歩です。道らしい道はないのですが踏み跡はいたるところにあり難なく山頂の三角点に達することができました。この辺り秋には松茸山になるらしくビニールのひもが踏み跡に沿って張ってあります。山頂からの展望は樹々の間から愛宕山方面を望むことができます。
双ヶ岡
点名:御室(おむろ)
地図:京都西北部
双ヶ岡は雙ヶ岡(丘)という書き方もします。京都は東、北、西と三方山に囲まれていますが、さらに市街には三方向に低い丘陵が三つあり双ヶ岡はそのうちの一つです。双ヶ丘自体も三つの丘からなり公園として市民の憩いの場所になっています。山頂近くには1980年(昭和55)に発掘調査されたという横穴式石室の古墳がありますが6世紀後半から7世紀にかけ豪族首長のため築造されたものです。三角点標石の東南角が欠損しています。
船岡山
点名:船岡山
地図:京都西北部
市街北西にある丘陵で大徳寺の南にあたります。船を伏せた形の丘なので船岡山と呼ばれます。全山公園になっていますが明治時代に建設された織田信長を祭る建勲神社が東半分を占めています。三角点は山頂の展望台にあります。
船岡山は794年(延暦3)桓武天皇の平安京造営にあたって基準点とされました。また1467年(応仁1)から10年間つづいた応仁の乱ではこの地に砦が築かれたそうです。現在の三角点の標石の周りにも新しい「砦」が築いてあります。
神山
点名:神山(こうやま)
地図:京都東北部
この山は名前のとおり上賀茂神社のご神体になっているそうです。上賀茂柊野にある立命館大学のグラウンドから竹やぶの中を登ります。道が不明瞭なのと急坂で骨が折れますが半時間程度で頂上に到達できます。当日、5月も下旬でしたがまだヤマツツジが沢山咲いていました。三角点の標石は破損していましたがセメントで補修されていました。(補修部分も壊れかかっています。)山頂には三角点標石とは別にご神体のしるしでしょうか名前のない石碑がありました。
吉田山
点名:吉田山
地図:京都東北部
市街東にある丘陵で京都大学の東、節分で名高い吉田神社の上にあります。徒然草の吉田兼好もこのあたりに住んでいたので吉田と名乗ったそうです。点の記によれば三角点は1903年(明治36)に設置されました。わが家に最も近い三角点なので中学生のころから、この標石を探していたのですが亡失したのか地図には載っていても実存していませんでした。現在の標石は1994年(平成6)に埋設された新しいものです。
三角点は丘の最も高いところではなく南の広場にあり吉田神社からの急な石段を上りそのまま登りつめたところです。吉田山も最近、遊歩道など整備されましたが自然はだんだん壊されています。わたしの母が子供のころの大正初期には松茸も採れたそうです。
吉田山の三角点は昭和初期に改埋されましたが、そのとき放置された古い標石を1931年(昭和6)10月8日の夕刻、旧京都一中(京都府立京都第一中学校)山岳部の連中がザイルをつかって担いで持ち帰ったというエピソードがあります。
山岳部のルームには三角点のほんものがおいてあった。 (中略) 吉田山の三角点がほりだされてころがっていたのを、何年かまえの先輩たちがひろってきて学校にもってきたのだそうだ。 [梅棹忠夫:北山そだち(梅棹忠夫著作集第16巻)中央公論社 1992]
この三角点は洛北高校時代にもルーム前に埋設されていて、毎朝、部員たちが三角点に挨拶していた。 [京都一中山岳部史編纂委員会:行手は北山その彼方 北山の会 2003]
下鴨の今西邸にはT等三角点がある。ただし、これは国土地理院とは関係がない。今西の還暦祝いに、山のグループが石屋に造らせたコピーである。どなたのアイディアかは存ぜぬが、今西にふさわしい、気の効いた贈り物である。 [同上]
京都一中の山岳部は今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫、川喜多二郎、梅棹忠夫など有名な登山家を輩出しましたが京都北山を本拠とした三角点指向の山行がを伝統となっていました。京都一中はその後、洛北高等学校になり吉田山の三角点標石も同山岳部に引き継がれたのですが同山岳部元部員の談によれば最終的には国土地理院に回収されたそうです。
2003年(平成15)ころに地形図上121メートルの標高点(標石なし)のある最高所の展望台そばに基準点とおもわれる直径5センチメートルの金属標が設置されましたが+印のみで刻字がなく、どの組織で設置されたものか不明です。この位置にはもともと京都市により設置された基準点があったようです。1922年(大正11)測図の京都市都市計画図(都市計画京都地方委員会刊、京都大学蔵)には124.70メートルの三角点記号が載っています。